主人と呼べる女
朝一番で歯科検診を受けた。
3ヶ月に一度検診を受けていたのだが、ついつい面倒で半年以上空いてしまった。
案の定数カ所、歯周ポケットが深くなっていた。
以前から、
「歯がすり減っています。歯ぎしりしているようですね」
と、言われていたが、自覚症状はなかった。
だが、今回「寝ている時だけではなく、重いものを持ったりする時にも人は無意識に歯を噛み締め
たりします」
と、言われた。
重いものは毎日持っている。
というわけでこれ以上歯がすり減るのを防ぐ為に、睡眠時にマウスピースを使用する
ことになった。
受付の女性に
「8月2日ならいつでも予約がいれられます」
と、言われたが、8月1日から8日までは旦那さんの実家の滋賀へ行く事になってい
た。
「あ、しばらく東京いないんで…」
と、言うと
「ご旅行ですか?」
と、聞かれた。
「旅行…というか…お…」
と、言いかけて、軽く魔が差した。
今まで、旦那さんのことは他人には
「夫が…」
と、話していた。それも、毎回なんて呼ぶか迷いながらでしっくり来ている訳ではない。
私のことも旦那さんのことも両方知っている人には普通にあだ名や名字に君づけで話していたが、世間的には「主人」というのが一般的。
若くとんがっていた時には、
「死んでも主人なんて言いたくない」
と、思っていた。
だが、最近40台で落ち着いている素敵な女性が自然に「主人が…」
と、話している姿を見て、それはそれで素敵…と思うようにもなった。
誰が目上で誰が目下…などと目くじらを立てない方が、したたかで賢い生き方よね…と思ったり。
だからと言って、いきなり自分が旦那さんの事を「主人」と、呼ぶのは、貧乏人の癖に金持ちぶっている様なそぐわない感じがあって、恥ずかしい。
自意識過剰だが、普段の自分を知っている人の前では恥ずかしくて絶対に言えない。
普段何の疑問もなく、「主人が…」と使っている人に取っては「夫が…」と言う方が、世間的に恥ずかしいのかもしれないけれど、「主人が」と、話すのは私にとって一人称を「拙者が…」「あちきが…」と、言うのと同じくらい、違和感があるのだった。
それが、歯医者という日常とはあまり接点の無い場所に来て、ちょっとだけ試してみたくなったのだった。
さり気なく「主人が…」と、言ってみたら、私も憎みつつ憧れている、自然に主人と言える「あっち側」の女性に見えるかもしれない…。(おそらく100%何とも思われないのだけれど)
「旅行というか…お…」
と、言いかけて1、2秒の間に様々な考えが頭を駆った。
「しゅ…主人の実家へ行くんです~」
「あら、どちらに?」
「滋賀です」
「じゃ~、結構遠いんですね~」
「そうなんですよ~」
決心して、どもりながらも「主人」と、言った後、会話がさらさらと流れた。
たった、これだけで脇汗がびっしょり。
受付の女性にとってはどうでもいいやりとりの中、勝手に冒険し、どもって微妙に失敗し、でも、ちょっとした達成感を味わった。
自然に「主人…」と、話せる女性には永遠になれないけれど、これからも時々やってみよう。
今度の予防接種では保護者の欄に自分の名前では無く、旦那さんの名前を書いてやるぞ。
ごっこ遊びのように楽しみながら、少しずつ社会性とやらも身につけたい。
何て呼ぶかとか、誰の名前を書くか…って大事だけれど、大した事ではないと言えば、大したことではない。
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