« 便にまつわるエトセトラ | トップページ | おひなさま »

とりあえず皿を洗ってから出直して来い!

ニンタマを見て貰いながら、お仕事。
だが、はかどらない。
お仕事・・・と言ってはみたものの、仕事・・・という言い方はどうも偉そうで好きではない。
仕事という言葉が嫌いな訳ではなく、「仕事なんだよ」と、偉そうな顔をして言う人が多く、そういう人種が嫌いなのだ。
雑談しながら、だらだら残業をしていたりするのを仕事と称している人も多い。
特に、文章を書いたり、芝居をしたり、稽古をしたり・・・という作業は仕事と遊びとの境目がはっきりしない。
そういうものを仕事と言っていいものか。
そういう作業はどちらかと言うと、いかに悪乗りできるか・・・が大事だっ たりする。
リラックスして悪乗り出来れば、調子も上がる。
だから、仕事というよりは遊びに近づいた時の方が、充実する。
ならば、好きではないことを、お金や生活の為に頑張っている時間なら仕事なのだろうか。
お金が派生すれ仕事・・・なのだろうか?
自分の劇団の公演など、何カ月も前から脚本を書いて、沢山の人の時間の調整をして、稽古をしても赤字だったりする。
赤字のものを仕事と言ってよいとは思えない。
だが、その芝居を見て、収入につながるお仕事を振ってもらえたりもする。
自分のやりたいことをやって、お金を頂ける時と、借金を背負う時もある。
自分としては、苦手な家事をやっている方が、余程仕事の様に思える。
だが、家事は他人の家で雇われて行う場合でなければ、仕事だと思っては貰えない。
だが、苦手な家事でさえ、楽しい時もある。
他にやらなければならないことが山ほど溜まっている時や、自分がやらなくてもよいような時に限って、料理は楽しいし、拭き掃除などにも夢中になってしまう。

家事が仕事か否か・・・ということはさておき、ある程度の料理、洗濯、掃除は男女関係無く、生きるために絶対出来た方が良い。
今、世間に叩かれまくっているが、私は割と鳩山総理大臣が好きだ。
あの人が毎日皿を洗っていると聞いたからである。
政治家には自分を偉いと勘違いして、自分には他に尊い仕事があるから、皿を洗うなどという下々の仕事はしなくてもいいと思っている輩が多いように見える。
そんな輩は、ただエライ立場になってチヤホヤされたいだけだ。
私は皿を洗う人しか信用しない。

演劇を志す人は、本当に演劇が好きな人も多いが、自分の能力に見合わない程の自己顕示欲を持てあまし、進学やら就職で失敗して人生で後手に回ってしまったことを、一発逆転しようと、安易な発想で始める人も多い。
公演をやる度に赤字であったり、素人丸出しの芝居をしても、いっぱしの役者気取りだったりする。
そして、そういう人に限って、テレビでスポーツ観戦をしては、自分より頑張っている選手に向かって「馬鹿!何やってるんだ!」と、怒鳴ったり、大して政治のことなど分からない癖に「今の日本はダメだ」などと、天下国家を論じたりする。
いつかは役者として成功するつもりなのかもしれないが、風呂無しの4畳半で自分より努力している人に向かって、いい気なものだ。
大概、そういう輩に限って、部屋は汚く、皿も洗わない。
天下国家を論じる前に、お前をなんとかしろよ!と思う。

私も昔は全く皿も洗わず、掃除も出来ないゴミのような人種だった。
今も、ゴミのような人種には変わらない。
皿洗いも掃除も嫌いだ。
だが、自分が食べた分を洗う、自分が散らかしたものは片づける・・・ということが出来なければダメだ!・・・という当たり前のことに30過ぎてから気付いた。
だから、今は少しでも当たり前のことが出来るように努力をしている。
(全く偉そうに言える立場ではないが)
鳩山総理に関して、皿を洗うより、政治をちゃんとしろ!と思う人も多いかもしれない。
だが、私は皿も洗えない、もしくは自分の汚した皿を平気で人に洗わせる人間が偉そうに政治などと抜かすのは信用できない。
まず、お前の汚した皿を洗え、すべてはそこからだ・・・と、思う。
皿を洗った事も無い奴、 自分の下着も洗った事が無い奴に偉そうな態度を取られたくないのだ。
20代から40代にかけて、金にもならない演劇を続けている。
自分で辞めて行く人もいれば、どこからも舞台に誘われず、自然に遠ざかった人もいる。
20代の頃にやっていた人はいつの間にかほとんどいなくなっている。
残っているのは、本当に能力があって売れている人、売れて行きそうな人、能力はないのだが、何故か運に恵まれたり、人に恵まれたりで、生活が成り立っている人、そして、才能が有る無しにかかわらず、心底夢見がちで、生活が辛くても夢を 見続けられている人、自分に才能が無いことに全く気付かないという素晴らしい才能を持っている人のいずれかだ。
才能が無いことに一生気付かないでも幸せで暮らせるならそれが一番だ。

夢見がちに芝居をやったり、文章を書いたりという遊びと仕事の区別がつかないことやっていると、色々どうでもいいことを考える。

私はどんな文豪であろうが、自分で書くことを「執筆」と言ったりするのが嫌いだ。
他人が「執筆中です」と、言うのなら分かるが、自分で執筆なんて口が裂けても言いたくない。
「作家にはインプットとアウトプットが必要。アウトプットの作業をしたら、インプットもしなければ」などと、言っている人も驚くほど多い。
こう言うと偉そうだが、つまりは「ウンコするにはご飯食べなきゃ」「よりよいウンコを出すには、それ相応のものを食べなきゃ」ってことだろう。
インプット、アウトプットというボキャブラリーを使うのが好きな作家気取りは大抵、「執筆」という言葉も使う。
そういう人を見ると、「書きたいことが沢山あって、なんとかしたいから書くのではなくて、作家っていう人種になって、人から尊敬されたり、チヤホヤされるのが目的なのだろう」と、思ってしまう。
もちろん自分にも作家という人種になってチヤホヤされたい欲望はある。
でも、基本的には書きたいことを、なんとかしたいから書き続ける人種でなければ、本末転倒だと思っている。
何かになりたい、誰かみたいになりたい・・・では無くて、やりたいことをやっていたら、こうなりました・・・というのが理想。
役者や俳優や女優でも同じことだ。
長年芝居をやっていると、そこそこの芝居が出来れば、ド下手でもいいということが分かって来た。
テレビや映画で見ている俳優さんも、現場で会うと下手でびっくりすることもある。
でも、存在に価値があるからいいのだ。
演技が上手でも商品価値が無い人ではダメなのだ。
商品価値が無いが芝居がまあまあ上手な人が、売れている人を「下手だ下手だ」と、言うのは醜い。
それは自分に魅力が無いと言っているのと同じなのだ。

そうは思っているものの、最近スカウトされたり、何かのコンテストでグランプリを取って一つか二つの映像や舞台作品に関わった・・・という程度のキャリアの人が「役作りには苦労しましたね」などと、言っていると首を傾げたくなる。
若いうちは台本を読んでは色々な想像をしたり、演じる役と同じ体験をするように努力したりしたことを、自慢げに話すこともあるので仕方がないかもしれない。
だが、それは当たり前のことだ。
それを苦労と思うなら役者と名乗るなと思う。
私が関わるような小規模の舞台でさえ、演出をしていると「○○ (役名)の気持ちが分からない」などと、相談してくる役者さんもいる。
いつも書いてあることを覚えて言えばいいだけじゃないか、何を悩む必要があるん だ・・・と不思議に思う。
役作りをしている・・・と語る人や「気持ちが分からない」などという人に限って妙な芝居をしたり下手だったりする。
大体、普段自分の気持ちを常に理解しながら生きているのか、そんなに熟考して発言しているのか?
考えなしにベラベラしゃべっていることの方が多いだろう。
本の大雑把な 内容を理解していれば、自分がしゃべるセリフの何が重要で、お客さんにはっきり伝えなければいけない情報は何か?が分かるはずだ。
そこさえ、理解していれば、役に対する思い入れなど却って邪魔なくらいだ。
下手な役者の演技プランほど邪魔なものは無い。
上手な役者さんは重要なポイントはちゃんと伝えて、遊べる所で遊んでいる。
そういう人の手にかかったら、ただの場つなぎだったり、必要な情報を与えるだけのシーンが信じられないほど面白くなったりする。
そういう役者さんほど「特に役作りなんかしてないです」「書いてあるからやっただけ」と、言うのだ。

40過ぎてこんなことばかり言っている自分も大概青臭すぎるような気もする。
だが、この遊びとも仕事ともつかないことをやりながら、細々とでも生活が成り立ち、一生夢見がちなことや青臭いことを語っていられたら・・・というのが私の夢かなのかもしれない。

|

« 便にまつわるエトセトラ | トップページ | おひなさま »