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撮影最終日

 撮影最終日。寝坊。今まで携帯の目覚ましで確実に起きていた。(携帯無くして目覚ましを掛けられなかった日は別として)万が一寝過ごしてもさっちんが起こしてくれるという安心感があった。朝の5時半出発だったので4時40分におきようと思っていた。しかし、ヘアメイクの仕上げを手伝ってくれる筈のスタッフさんも、寝坊したらしく5時15分まで寝続けてしまった。最後の最後で、失態。くやしい。考えてみたら、「みつばち」でも最後の日は寝過ごした。ちゃんと最後まで気を張らなければ。大慌てで支度。
 今日は主にターレーの運転シーン。目の前に雲があるような所まで登る。途中鉛の湖なる謎の湖を通る。この辺りの自然は年期が入っていて、それまで知っていた穏やかな物では無く獰猛な感じさえする。そのエネルギーは妙に心地良かった。監督の西谷さんのお父様がクレーンのついたトラックでターレーを運んで、撮影中は通る車を止めてくれたり積極的に参加してくれていた。「こんな道で危険だから、ゆうかちゃんが無事でいられますように、と神様に祈ってたんだよ」と、実の父親は言ってくれないようなストレートな暖かい言葉をかけてくれた。結構そういうのに弱いので、ホロリとする。途中で地元の方が今朝掘り起こしたじゃがいもをふかして差し入れてくれた。なるほど、野菜は鮮度が命というのはこういう事か、と実感。
 撮影は順調に進みお昼で終了。後は主役の山本さんだけ残っての撮影になる。この先、ターレーの運転をする事はおそらく無いだろう。何度か暴走したり、ブレーキとアクセルを同時に操作して、道具類に突っ込んだり、人を振り落としたり、肝を冷やしたが、最後となると少々センチメンタルな気持ちになる。荷造りが大変で途方に暮れる。  
平湯の温泉へ入ってから、バスで東京へ。諏訪湖インターでダチョウの串焼きを食べるのを楽しみにしていたが、ダチョウは発売中止になったようだ。美味しかったのに、なぜなのだろう。

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善行をアピール

 ヘアメイクのさっちんが今日で、帰ってしまう。先日、記録の増田さんも仕事で抜けてしまった。頼りになる女性が減って心細い。さっちんはこういう現場は初めてと言っていたが、とても信頼できるスタッフさんだった。殆ど寝ずに、食事の手伝い、制作面、ヘアメイク、とフルで活動していた。辛い仕事をこなしているという感じではなく、色々な事を覚えて行く事に喜びを見いだしているようで気持ちが良かった。しかも、可愛い。ウチの及川ミオコに似ているが、もうちょっと社会に適応している感じ。実を言うと、ミオコがハイレグのオーディションを受けた時、私はいち押ししていたのだ。
 さっちんは撮影の待ち時間に私が炎天下にいると、少しでも日焼けさせまいと日傘を差しかけてくれたり、甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。人に日傘を差しかけてもらうなんて、まるでお姫さま気分。初めは申し訳なくて困惑していたのだが、段々いい気持ちになって行った。こういう事が天狗の始まりなのかもしれない。彼女はこれから2ヶ月テーマパークで住み込みで働きに行くのだ。非常にバイタリティがある。お別れの時ちょっと泣きそうになった。2ヶ月後に会う約束をしたが、その時期になったら、お互い共通の話題も無くなり会うテンションじゃなくなったりするのは良くある事だ。今まで共演して大好きになった人でも、いつの間にか話す事もなくなり疎遠になる。初めはそういう事が、悲しかった。今はそれはそれでいいと思っている。
 主役の山本さん以外は早めに返してもらったので、気まぐれにトイレ掃除をする。記録の増田さんが、監督の西谷さんがトイレ掃除をしているのを見て、じんとしたと言っていたのを思い出したのだ。しかし、くみ取り式のトイレの掃除をするのは初めてなので、むやみにトイレクイックルを消費してふいた割に、大して綺麗にならなかった。ひっそりと善行をつむという出来た人間ではないのでここにアピールしておく。
 夜、宿泊先の民家の庭で流れ星を見る。願い事をかける間も無かった。後で考えたが願いごとなど無かった。その後蛍を見た。夜は男性の役者さんのお部屋で、アコーディオン演奏をリクエストされ、一曲披露。はじめ「今日はまだ弾きますか?」と言われたので、毎晩弾いている事への苦情かと思った。どうも、いつも誰にも姿を見せずに部屋に篭って音が響いているので、鶴が機織りしているみたいで気になっていたらしい。人前で弾くのは久しぶりだが、気持ち良かった。

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銭湯トーク

 財布と携帯と目薬と鍵が入ったポーチを無くした。昨日どこかに置き忘れたようだ。いつもは朝4時半にメイクを開始するのだが、携帯で目覚ましをセット出来なかったので、寝過ごす。ヘアメイクのさっちんに起こしてもらう。まだ酔っていた。ポーチが無くなったこともどうでもいいような気がした。撮影場所に行き次第に正気になって行くにつれて、心配になってきた。大騒ぎをして心あたりを探してもらう。果たしてポーチは出てきた。車や宴会場に忘れたと思っていたが、何故か共同生活をしている民家の近くのバス停にあったそうだ。見つかって良かった。やっぱりお酒は当分飲まないようにしなければ。
 撮影はお寺の境内で行われた。鐘突き場に登り、指で鐘をはじいたりしていたが、思いきり鐘を突きたくてたまらなくなる。西谷さんに「鐘つきたかったけどまずいと思って我慢したんですよ」と、我慢した事を偉そうに自慢した。西谷さんは「それは・・・我慢してください」と、困った顔をしていた。当たり前だ。
 いつもより早い時間に温泉へいく。お婆ちゃん達でおおにぎわいだった。シャワーが一つも空いていないので、湯船のそばで洗髪しようとしたら、一人のおばあさんが「わたしは後でいいから、あんたここつかいなさい」と場所を開けてくれた。丁重にお礼をいい、洗髪をして体を洗っていると、そのおばあさんは自分が湯船のそばに座り体を洗っている。間も無く隣が空いたので、おばあさんを呼び並んでシャワー。お湯から上がって脱衣所へ行くと「こしが痛いのはやっぱり年かねぇ」と別なおばあさんに話しかけられる。「筋肉が落ちると体重を支えられなくて腰が痛くなるそうですよ」と答えるが、「ふううん」と気のない返事。求めていた答えではないらしい。おばあさんのなかでは「年のせい」という答えが出ているようだった。そのおばあさんはなおも話し続ける。
「どうせもうすぐあの世へいくから。でも、なかなかお迎えが来なくて。自殺するのは家族に悪いし。早くあの世へ行きたいのだけど、こればっかりはねぇ。私、しわくちゃになって生きていたくないと思ってたの。」
 返答に困る事しか言わない。私もしわくちゃになった自分の顔をみて生きて行けるのだろうか、といつも思っているのだ。しかし、おばあさんはみんな生きているから、その時にはなんとなく大丈夫になっているのだろうと、安心していた。
「60代で死にたかったの。可愛いまんまで」
「失礼ですがおいくつなんですか?」
「79。もうすぐ80よ」
「ええ、見えない。お若いじゃないですか」
「そう、ありがとう」
 そして唐突に話題は変わる。
「さっき裸で体重計に乗っちゃった。おてんばなの。おてんば代表」
「あら、いいじゃないですか、お元気なのが一番ですよ」
 そこへ、別なおばあさん登場。
「あなた、川上さんとこのお嬢さん?」
「違います」
「あらそう、良く似てる。そのおじょうさんも綺麗なのよ。綺麗な人にしか誰かに似てるなんて言わないわ」
 またしても、綺麗と言われたのは嬉しいが、言っている内容は把握出来なかった。
「もしかして、お嫁入り前?」
「はい」
「27歳?」
「33です」
「あら、そう・・・。でもいいかもしれないね。背もそんな低くないし。そんなに太ってもいないし。自分でも痩せてるほうだと思うでしょ?」
「痩せているほうとは思いませんが、年とって顔がこけたので実際より痩せて思われるようです」
「そう、痩せようとか思っちゃだめよ。テレビとか出てる人はテレビであんだけ細いんだから、実際物凄い細いんだろうね」
「そうですね」
「でも、若い内は頑張ってダイエットしたりするのもいいのかもね」
 素敵そうなおばあさんだったが、痩せて欲しいのか欲しくないのかは分からなかった。
 夜ご飯は、とんちゃんという食べ物を食べた。神岡では豚の内蔵を焼いたりした物をよく食べるらしい。録音担当でシェフの森本さんが、地元の料理を自分なりに工夫した物を出してくれた。辛い味付けのもの、辛くないもの、食べるととけるようなキュウリを煮たもの。うるさい程手を変え品を変え、いかに美味しいかという事だけを訴え続けて、食事。うまくて泣きそう。

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精神分裂かと思われた

 地元の方達が、慰労会を催してくれる。久しぶりに飲み会だ。初めはモノモライが悪化しないように控えていたのだが、次第に全くお酒を飲みたい気持ちはなくなっていたのだ。しかし、地元の方達が物凄いペースでお酌をしてくれるので、結構なピッチで飲んでしまう。飲むと不思議なもので、おいしく感じられて来た。それにしても、こんなに歓待されるのは生まれて初めてな気がする。東京の小劇場では滑稽だったり醜い事をする事も多いのだが、神岡の人に散々可愛い、綺麗を連発され、非常にいい気分になった。勘違いしないように気をつけなければ。
 八十八と書いてヤソハチとよむおじさんに「あんたは凄い。精神分裂かと思った。どこが凄いかと言うと、初恋の人に似てるんだよ。あんたみたいに頬骨が張ってて」と言われる。褒められている意図は分からなかったが、頬骨が張っていて良かったと思った。普段は削りたいと思っていたのだ。
 飛騨娘という日本酒をぐいぐい飲む事になり、ある時点から記憶が曖昧になる。二時間程度飲んだだけなのに、これほど酔うとは。弱くなっている。寝ゲロはしてません。

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撮影はまだまだ続く

昨日に引き続き、地元の方達をまじえての撮影。自分の知っている都会のおじちゃんおばちゃんより、無邪気で子供のようにはしゃいでいて非常に可愛らしい。カメラを向けると、小学生のようにピースをしたりする。私は初対面の人と話すのが苦手な方なのだが、神岡の人とは不思議と楽に話せた。人懐っこい土地柄なのか、人相の悪い人が全くいないのだ。炎天下の中立ちっぱなしなのに、「夢のようだ」と喜んで参加してくれている。

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撮影は続く

d0413788.jpg 地元のエキストラのおばちゃん、おじちゃんを沢山交えての撮影。監督の西谷さんの同級生の親御さん達や、家が隣の人、担任の先生などが集合。撮影場所にはトイレが無かったのだが、西谷さんのお父さんが仮設トイレを設置してくれた。セリフの無い映画なので、動きや表情を大きく作っているのだが、「バレエ習ってたの?」と言われ、ご機嫌な気持ちになる。ハイレグでダンス劣等生だった私をびしびし鍛えたくれた、中坪由起子嬢のおかげだ。

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ネガ・ワンダーランド

a19b992e.jpg 上田君監督作品の「ネガ・ワンダーランド」がぴあフィルムフェスティバルでグランプリを獲ったとの知らせが入る。この間上映されているのを見て、なんとなくそんな気がしていた。昨年富山で合宿して撮影したものだが、非常に楽しかったのだ。とても嬉しい。関われて良かった。たいがい自分が出ているものを人に見られるのは恥ずかしいのだが、これは人に観て欲しいと思った。去年楽しかったので、今参加している岐阜での撮影にも参加したくなった所もある。集団生活は苦手なのだが、なんだか健康的な真人間になれる気がする。今回も非常に楽しい。楽しい事は楽しい事を呼ぶような気がする。ただ、ネガティブな思考を自分のより所にしているので、素直で健康的な思考回路が生まれてくる事に戸惑いを覚える。
 Jフォンの人が多く今更写メール大流行。花や、カメムシなどを撮影。撮影チームの多田さんが可愛らしいマトリョーシカを入れ込んで撮った、写真が非常にラブリーだった。御花畑に止まっている揚羽蝶とマトリョーシカ、蛍とマトリョーシカ、マトリョーシカのシリーズはどれも秀逸に可愛らしかった。待ち受け画面にしたい。

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下手な嘘

 雨で中止という予想であったが、5時ころ雨が上がる。午前中は2時間押しと言われ焦ったが、午後には順調に進みむ。最終的には後日やるはずのシーンまで撮影出来た。今日は出ずっぱりだった。人をビンタする事が多く、手が熱を帯びてしまった。
 温泉に行った後、「大獅おどり」という祭りへ行く。宿泊してる民家の側の寺で行われていた。見様見まねで踊ってみたが、いまいち上手く踊れなくて心の中で地団駄を踏む。振る舞い酒が出されていた。「みつばち」の打ち上げ以来初めてアルコールを口にした。7月いっぱいは一滴も飲まないつもりだったのだが、挫折。久しぶりに飲んだので一杯だけなのに、酔っぱらう。撮影中「お酒は体質的にうけつけないの」「下戸って言うのかな?」などと嘘をつきまくっていたのだが、水の泡だ。

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カミオカンデ?

 5時に起床。しかし、雨のためヘアメイクしたまま待機。11時頃まで寝てしまう。これ以上寝ると、夜眠れなくなると起きる。雨は止まない。撮影中止。
 撮影監督の金子さんがフィルムを現像に出すため、車で町へ行くといいうので便乗させてもらう。普段車に乗っていないので、乗せてもらうのは大好きなのだ。スタッフの田中君と3人で町へいく。カメラ屋さんにプリクラがあったので金子さんと一緒に撮影。画面に顔が写らないからおかしいと思ったのだが、殆ど何も写っていなかった。枠のイラストに犬がいるのだが、犬の背後霊のような二人になってしまった。そのカメラ屋にはソーラーシステムのカメラ、オウムの裁判を盗み撮りしたことで有名になったという超小型カメラなどがあり、いじって遊ぶ。その後スカイドームという所へ行く。滞在しているのは岐阜の神岡町。ノーベル賞を受賞したカミオカンデの研究所がある。スカイドームは普通のインターのような食堂、土産物屋があり、カミオカンデについて説明している施設があった。物凄い研究らしいという事以外何も理解出来なかった。

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トイレを我慢すると気持ちが荒む

 朝、4時半起床。朝食、ヘアメイクの後出発。今日は、トイレが無い場所なので水分控えて下さいとのこと。お昼に一度トイレ休憩をとるだけらしい。しかし、皆には黙っていたが昨日、トイレに行きたくてもがき苦しみ、こっそり草むらで用を足したのであった。女性スタッフにその事をつげたら、今度から誘ってくれと言われる。連れしょんなんて、中学生以来。楽しそうだけど、照れ臭いから実現できるかどうか。
 今日はターレーで坂道を下っている間にかなり加速して、無理やりカーブを曲がった際に、後ろに乗っている山本将司さんを振り落としてしまう。西部劇の馬車のように走っていると、急に軽くなってパタンと音がしたが、はじめ何が起きたのか分からなかった。しばらくして、誰か落ちたのかもと気付く。山本さんは肘から流血して、背中に擦り傷と打ち身が出来ていた。自分でもあまりのスピードに少々動揺していたのだが、このような事になるとは。落ちたのが山側だったのが幸いだった。谷側だったらと思うと背筋が寒くなった。やはり後ろに乗っていた吉城さんに「対向車が来ていたら、みんな今ごろいなかったね」と言われた。何か運が良かったような気さえしてくる。
 夕方トイレに行きたくて仕方なくなる。しかし、いいポイントを探すのが面倒なので我慢する。宿泊している民家に立ちよって、温泉へ。すぐ出発するとの事だったのでやはりトイレを我慢する。しかし、この時トイレに行くと言えば良かった。いつもの温泉が休みなので、違う温泉へ行くことになった。そこはかなり遠かった。温泉につくなりトイレへ直行。やっと生きた心地がした。トイレを我慢すると気持ちが荒むという事が分かった。

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シビれる一日

 3時半起床。4時からメイク。しかし、外は土砂降り。はじめ土砂降りと気付かなかった。録音担当でシェフの森本さんが何か揚げているのだと思った。しかし、かなり長時間揚げているので不審に思っていたら、土砂降りの音だった。結局待機する事になる。
 11時頃急にカンカン照りになる。出発して撮影。以前ターレーで下った難所へ。しかし、私の中で膨れ上がった恐怖の場所は思ったより緩やかであった。狭い道の脇は30メートルくらいの崖だったはずなのに、崖はどこにも無かった。どこに行ったのだろう。7時過ぎまで撮影。撮影監督の金子さんが河に入って、そこから撮影していた。何か出来る人っぽい図に痺れデジカメで激写。微妙に手ぶれしてしまい残念。
 帰って温泉へ行き、戻ると2種類のカレーが待っていた。この世で一番好きな食べ物がカレー。森本さんは既に3種類もカレーを作っている。カレーにも痺れまくり。 

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蟻地獄

 撮影のリハーサル。炎天下の中で。日焼けが心配。撮影場所のそばに東屋があり、合間にそこでくつろぐ。蟻地獄を発見。
 子供の頃、蟻地獄を掘り起こしたら、中に主がいたのを思い出す。掘り起こしてみると、はたして主はいた。共演者の南さんに、「この虫からしたらえらい災難ですよ」と言われる。「子供の頃何度も掘り起こしたけど、すぐ巣を作り直してたよ」と言い分けにならない返答をする。しかし、罪の意識を感じ、初めの形状ににたような物を作成。罪滅ぼしに近くにいたダンゴムシを投げ入れた。どうせすぐはい上がってくるだろうと思っていたが、ダンゴムシはその蟻地獄もどきから抜け出せず、転がっては死んだふりを繰り返してた。すると、中の主がもぞもぞと動き始めた。私が、ほじくり出した時は寝ぼけた動きをしていたのに、かなりどう猛な動きをしていた。
 その後南さんが発見した別の蟻地獄も観察。そこでもダンゴムシと、小さな蟻がもがいていた。地獄の縁に、大きな蟻の死体があった。小さい蟻がその死体を運んでいた。私は、大きな死体ごと地獄に投げ込んだ。小さな蟻が、自分が窮地に陥ったことも分からず、なおも大きな蟻の死体を運ぼうとしていた。しばらくして、自分が抜け出せない地帯に入ってしまった事に気付いたようで、狂ったように登ろうとしていた。何度も落ちているのを見て、急に不安になった。私は、人間の分際で踏み入れてはいけないい虫のサイクルに手を出してしまったのではないだろうか。こんな事をしてはいけない、と自分が投げ込んだ大きな蟻の死体と小さい蟻だけ救出した。元々いたダンゴムシと小さい蟻は放っておいた。更に、最初破壊した蟻地獄に投げ込んだダンゴムシも救出しようとした。ダンゴムシにしてみたらいい迷惑なのだ。しかし、私が引っ張ろうとしてもダンゴムシは動かない。地獄の主が食らいついているようだ。尚も取り出そうとした所、ダンゴムシはずずっと地中にめり込み姿を消してしまった。慌てて、再び私が作成した蟻地獄もどきを破壊した。しかし、どんなに掘り起こしても、ダンゴムシと主は見つからなかった。この事が、将来私が地獄へ落ちる決定的要因になるのではと、暗い気持ちになった。

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岐阜ごはん

 雨のため、撮影中止。読書、アコーディオン練習、マラソン、ビーズ細工。優雅な一日。
 お昼に納豆トーストを食べた。納豆にチーズ、キムチを乗せて焼いた。美味。皆訝しんでいたが、真似て食べたらしく、評判良かった。
 夕ご飯はキーマカレー。コリアンダーが良く効いていた。シェフの森本さんが、ゆで卵やオリーブ、などをトッピングして綺麗に盛りつけしてくれた。このカレーが、半端なく美味しかった。生涯で一番美味しいカレーだった。

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岐阜生活

 お昼起床。リハーサルと、ターレーの練習。今日は後ろに人を乗せて走った。緊張したが、前回の練習より上達したようだ。

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再び岐阜へ

 夜22時に成城学園前集合。岐阜へ発つのだ。
 その前に荷造り。電話回線がおかしくなったのでNTTに来てもらう。最近無気力で、部屋がえらい事になっていたので、命がけで掃除。宅配便を4個送る。それだけで、息をつく間も無いほど忙しかった。食材を腐らせるのはよくないので、トウモロコシをゆでる。食べる間がないので、持っていく事にした。岐阜へ向かう車内で、空腹のあまりむさぼるように食べる。そして爆睡。運転している人に申し訳ないと思いながらも寝続ける。車の中で寝たらいけないという教育を受けていたので、最近まで車内で寝る事が出来なかった。しかし、両目立て続けにモノモライになったのは、体の抵抗力、免疫力が落ちているためと思われる。抵抗力を培うには、夜10時から午前2時までの睡眠が大事なのだ。嫌々寝ていたのだが、一瞬で岐阜に着いてしまった。私のお部屋はかなり住みやすく改善されていた。電気もつくようになった。畳も柔らかかったのが、ちゃんと張り替えられていた。至れりつくせりだ。

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観た事のないイクマ君

 モノモライの炎症がいい感じになってきた。これは、眼科に行ったら針で刺して膿を絞ってくれるのではないだろうか。再びブロードウェイ眼科へ。私の前が明らかに、人寂しくて構ってもらいたい感じのおばあちゃん。先生が目薬を処方して「痛んだ時に刺してください」と切り上げようとしていた。しかし、おばあちゃんは
「じゃあ、痛まなかったらささなくていいんですね」
「百日後に痛んだらさした方がいいのですか?」
「さした後10分後でも、さしていいんですか」
といった事をこの10倍くらい繰り返していた。やっと私の番になった。しかし、戻ってきて「右も痛くなった」と私の治療を中断させる。「後で見ますから。今患者さん見てるから」と先生が言ってもお構いなしだ。私の目は結局「炎症が強いのでさしてもあまり意味がない」と、言われ無駄足になってしまった。診察が終ると待ちかねていたおばあちゃんがいそいそと入ってきた。「右目も痛くなったんですね」と先生。「右目じゃないです。さっきは左目のこっちがいたくなったけど、今度は左目の右側が痛くなって」とおばあちゃん。先生はその後おばあちゃんにどのくらいの時間を費やしたのだろう。
 アゴラ劇場へ。ポかリン記憶舎の「ピンポン」「アイスクリン」の2本立てを観に行く。「ピンポン」の方にイクマ君が出ているのだ。今まで観た事のないイクマ君を観た。知らない人がやっていたら冷静に観られるのだが、イクマ君がこんな事を、あんな事をと、ドキドキした。しかも、ぎりぎりに行ったので最前列。照れ臭くて仕方なかった。「アイスクリン」のほうには、以前共演した事のある桜井昭子さんが出ていた。8年ぶりにお会いした。最近着物にはまっているので、大変興味深かった。女優さんの裸足の足が綺麗で羨ましくなる。不思議な空間で、ツボにはまった。

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呪いのノイローゼ

 昨日書き忘れたが、午前中眼科へ行った。見た目は酷くないものの、痛みが酷いので、診断を仰ぎたい、そして悪化しないように薬を貰いたいと思ったのだ。中野のブロードウェイ眼科は、空いているがいい病院のような気がする。2回目になると、先生も大分親身に感じた。岐阜に行くまでに治したい旨を伝えると、今年岐阜の白山に登りたい、と言った世間話もしてくれた。私の全く知らなかった岐阜の地理にも詳しいようだ。眼科的な治療とは全く関係ないが、博識だと思うと診断も信用出来るような気持ちになる。
 肝心の診断は、結構シビアであった。自分では気付かなかったが、左目の目じりのモノモライの他に、古い結膜炎もあった。まつ毛の縁にふつふつと3、4個白い出来物がある。これはマイボーム腺という涙の油分を分泌するもので、そこがつまってしまって膿んでいるのだという。マイボーム腺炎なる状態になっているらしい。涙に油分があるとは知らなかった。これが原因でモノモライになっている。右目も末期状態のときは同じようになっていた。何となく両目の奥に沢山の膿がつまっているような感覚に襲われた。このような事が頻繁に続くようだと、内科的な検査をしなければならないと言われた。薬は抗生物質なので、長期的には出せない。一週間分が限界だそうだ。岐阜で悪化してしまったらどうしたらいいのだろう。
 しかし、悩んだからといって治る訳ではない。その時は、その時だ。しかし、よく休まなければと思い詰める余り興奮して眠れず読書に明け暮れてしまったりする。モノモライで苦しんでいる状態から、トリップしたくなるのだ。いっそのこと、この先一ヶ月何も無く、ただモノモライとだけ向き合う人生だったら優秀な患者になれるであろうに。それはそれで楽しいかもしれない。肩書きがモノモライ患者だけで、体のメンテナンスを人生の目標に生きるのだ。メンテナンスしながら、他の事をしなければと思うので焦って養生できないのだ。一度に沢山の事を考えると、思考がばらばらになってしまう。文脈どころか、単語にすらできない。平仮名やカタカナ、漢字が縦、横、斜め、逆さに漂ったり、わき出てきたり、大変な事になってしまう。しかも、その文字の密度は物凄く濃いのだ。認知出来ない。奇声を発して、自分の体を捨ててしまいたくなる。モノモライ程度で、このような状態になるのだ。世間的に深刻な病になったら、どうなってしまうのだろう。このような暮らしをしていたら、近い内にそうなってしまうだろう。メンテナンス・・・メンテナンス・・・。夜10時には寝なければ。お酒も止めなければ。煙草、大麻、覚せい剤、SM、スカトロ、全て止めなければ。そしていつかトライアスロンに出場するのだ。

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眼帯で浴衣

 目が痛い。ひきこもりたい。
 しかし、そうもいかない。昨年撮影した上田大樹監督の「ネガ・ワンダーランド」が、日比谷シャンテ・シネ2で上映されているので観に行くのだ。その後、浜離宮ホールでラウル・バルボサ氏のアコーディオンの演奏会。どちらも楽しみにしていたのだ。
 浴衣を着て眼帯という扮装で銀座へ。浴衣は3着あるので、今年は事あるごとに着る事にしているのだ。本日は緑色の絞りの物を着用。帯は垂れのある貝の口に結び、帯締めをした。おはしょりを長く取り過ぎて、くるぶしが出てしまう。しかし、雨がふりそうなので裾に泥がついたりする事を考えてそのままにして置いた。
 映画は予想していたより、遥かに面白かった。監督の上田君、制作の新見さん、主役の石川ゆりこちゃん、助監督の富田君、音楽の上野さんといった懐かしい人たちにも会えて嬉しかった。いい作品になっていたので、是非沢山の人に観てもらいたいと思った。改めて上田君の才能を感じた。19時から三浦大輔さんの「はつこい」が上映されるので、観たかったのだが、浜離宮へ行くため断念。
 アコーディオンのコンサートは、これまた素晴らしかった。ラウル・バルボサ氏は音楽の神様ではないかと思った。出てきた瞬間に物凄いオーラを発していた。クロマチックアコーディオンを2種類(クロマチックは鍵盤がボタン式)、ディアトニック・アコーディオン(蛇腹の押しと引きで音が異なるもの)、ギターを弾き分け、時には歌う。足に鈴をつけて鳴らしたり、マラカス、笛、その他名前が分からない鳴り物を、随時ミックスしていた。アコーディオンやギターを弾きながら、同時にパーカッションを入れているような感じであった。ソロ演奏とは思えない複雑な演奏だ。学べる所は盗もうと思って観ていたが、何をやっているのかさえ分からなかった。ただ、その神業に痺れているしかなかった。今まで歌や楽器の上手い人を観ても、こんな体験は初めてである。蛇腹が中途半端な位置になると、空気穴のボタンを押して空気を抜いて蛇腹を閉じるという作業をするのだが、空気を抜く音も、奏でる音として活用し、蛇腹を広げて太鼓代わりに叩いたり、何でもありなのだ。アンコールでは新幹線の走る音や、雑踏の音まで演奏してくれた。神の生まれ変わりのような人にとっては、全ての音が音楽なのかもしれない。

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私は可哀想なのではないか?

 もしや、私は可哀想なのではないだろうか。世の中には沢山の可哀想な人がいるので、少々おこがましいかもしれない。しかし、ちょっとは可哀想なのではないか。今日そんな気がした。
 昨晩、怪しい気配のする左目を腫らしたくない一心で氷で目を冷やしながら寝た。目が覚めると朝の7時半。恐る恐る鏡を見た。疼くような痛みはあるものの、普通であった。一安心し、氷を変えて「ものもらい」についてパソコンで検索する。腫れ始めに冷やすのは効果的だが、化膿したら暖めた方が早く治るなどと書いてあった。まだ、モノモライとは信じていないもののかなり熱心に30分程冷やした。ところがどうしたことだろう。再び鏡を見ると腫れているではないか。右目の時は二重が消えるほどであったが、そこまでではない。しかし、確実におかしな顔になり始めていた。やっぱり……。気のせいと打ち消しながら、この痛みがモノモライである事は本当は分かっていたのだ。右目のモノモライの為に内服していた抗生物質が切れた途端、左目に出来始めた。
 調べによると、体が疲労していて免疫力が低下している時になりやすいとの事だ。確かに何にもやる気が起きない。しかし、そんなに体が疲れているのだろうか。本番中の方がよほど疲れていた。ここ数年ひと月と休みがないまま、連続して芝居をやり続けてきた。しかし、この先半年以上舞台の予定が無い。体が「今だ!」と悪いものを沢山出そうとしているのだろうか。しかし、映画やその他の仕事も入っている。早く治ってくれなければ、どうしていいかわからない。痛いだけならいいが、痛い上に醜くなるのだ。呆然としながらモノモライについての情報を調べ続ける。
「口内炎とものもらいになりやすい人の掲示板」なるものにつきあたる。何となく読み進むと、震撼する事が書いてあった。
「ひと月に一度モノモライになり続けている」
「しこりが消えない」
「口内炎がいつも15個くらい出来ていて好きなトマトが食べられない。」
 どうも、モノモライになりやすい人と口内炎になりやすい人は、被っているようだ。確かに私も一昨日くらいまで口内炎が出来ていた。右目に出来たモノモライが治った途端に左目に出来た事を、衝撃的に受け止めていたが、よくある事のようだ。つまりは体がそういうモノが出来やすい状態に陥っているのだ。しかし、仙台から帰ってからお酒も飲んでいないし、それほど無理もしていないのだ。ただ、のんびりする方法を忘れてしまったようだ。徹夜で読書、徹夜でテトリス、徹夜でだらだらと、のんびりするにも無理してしまうのだ。
 ポジティブな人間が嫌いで、ネガティブを心がけていた。しかし、それは今まで多少余裕があったのかもしれない。今、少しでも前向きになりたくなった。
「右と左、立て続けにモノモライになったくらい何なの? 両目一緒にならなくて良かったじゃない」などと自分に言い聞かせている。それでも、持ち前の後ろ向き根性が「この左目治っても、また右目がなるんじゃない。そんなものだよ」とささやいてくる。慌てて打ち消す。体調が良くなるまで前向きの精神にくら替えだ。
 アコーディオンのレッスンに行き、先生に少々愚痴る。帰りに薬局で葛根湯、小健中湯、千年灸を購入。母からモノモライに効く漢方を教えられたのだ。葛根湯は普段風邪薬として用いられるが、肩凝りや炎症にも効果的らしい。小健中湯は疲れた時。千年灸は調べていたらモノモライのツボというものを発見し、お灸が効くと書いてあったのだ。お灸は初めてだ。やってみたらかなり熱い。一番ソフトなものを選んだのに、こんなに熱いのでは一番ハードな物を使用したら火傷してしまいそうだ。このまま、何も予定が無ければノラクラとモノモライライフを楽しむ事も出来る。しかし、期限付きで治さなければと思い詰めているため、焦り過ぎて却って治りを遅くしているような気もする。

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江ノ島、海、太陽

 江ノ島。海。太陽。今日の撮影は江ノ島であった。朝9時に片瀬江ノ島駅集合。小田急線で偶然今奈良君といっしょになる。寝ようと思ったが、喋っている内に江ノ島へ到着。ノリオさんが金髪になっていたのを知らなかったので、どこぞの若造だと思って見過ごしてしまう。イクマ君は20分遅刻して到着。恐縮していた。今日の監督は、浦島くん。いつもエッへやハイレグの為に車を出してくれる。26歳なのだが常に半ズボンを履いていて、予備校生位にしか見えない。腰が低い人だ。私は腰が低い人が好きだ。エッへのメンバーの他に、竹本さん、田中さんという人が助っ人に来てくれた。私はいつもと違った少々おすましした役柄。本来そういう事がやりたかった筈なのだが、やってみるとかなり照れ臭い。何か余計な事をしないと落ち着かない習性がしみ込んでいるようだ。
 やはり海は素敵。水着を持ってくるべきだった。日差しが熱くて仕方が無かったし、まぶしくて目も開けていられない。おそらくかなりやばい写りになっていると思う。しかし、海にいるというだけで何だか興奮する。エッへの皆が海に飛び込んでじゃれているのが羨ましかった。ワンピースのまま飛び込む事を本気で考えたが、帰りの事を考えて止めた。大人になった。5年まえだったら、後先考えずに飛び込んでいたに違いない。
 どうも左目が痛い。右目のモノモライは終息に向っている。まさか左目もモノモライになってしまうのだろうか。今新たになってしまっては今後の全ての予定が大変な事になる。さっき海と書こうとしたら、「膿」が出てきて嫌な気持ちになった。
 どうか、モノモライではありませんように。一晩寝たら腫れているなんて事がありませんように。このいた痒さは十中八九モノモライとしか思えないけれど、勘違いでありますように。

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目から膿

 昨日のバスの車内で、目から膿が出始めた。朝おきたら、瞼が張り付いてなかなか開けられない。やっとの事で開ける。なんと、大分回復している。ちょっと腫れているが、正常な顔に近づいてきた。
 岸君が客演しているロニーロケットの「輪切りのバウム」を観に行く。岸君も修君も中村たかし君も、最高であった。通るだけであんなに滑稽だなんて、凄い事だ。お話も先の展開が気になる感じで楽しめた。非常に緻密に出来ていた。清順と河口麻衣ちゃん、谷口さん、昨年遊機械プロデュース公演「ノーセンス」で一緒だった松下哲君も来ていた。相変わらずお人好しそうな二枚目だ。実際非常に好青年だ。こんな若者と学生時代などに出会ってロマンスが生まれていたら、きっと幸せに違いない。
 谷口さんと話し、明日急遽映画の撮影が入ることが決まる。ちょっと飲みにも行きたかったが、帰宅。

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ターレー運転

 今日はいよいよターレーの練習。しかし、生憎雨である。今日しかないので「雨がっぱ着て練習します」と鼻息荒く宣言する。
 民家から西谷さんの実家の車庫へ行く。そこでターレーを初めて見た。初め何だか分からなかった。荷台の上にドラム缶とハンドルが付いているような乗り物だ。よく見ると三輪車だ。まず初めに西谷さんに運転してもらい、私と演出助手のタテナイさんが荷台に乗る。後ろに乗るのは中々面白い。車通りの少ない所へ行き私の練習が始まる。思いのほか力が必要だ。ちゃんと握っていないと、直ぐハンドルが取られて曲がってしまいそうになる。少々慣れたら、「そこで旋回してください」と言われる。そんなこと無理と思いながらも、やれると思うから言っているのだろうとチャレンジ。しかし、上手く出来ずあわててアクセルをふかして過ぎて、ターレーがひっくり返りそうになる。私は地面へ落ちた。しかし、ターレーが走り続け道路脇の溝に落ちそうになるので慌ててギアにしがみつき車のニュートラルにあたる状態へ戻す。スネを打ち付けて痛かったが、驚きが大きく痛みどころでは無かった。「まだ早かったですね」と謝る西谷さん。これからは、自分が出来ないと思う事は簡単なことでも言っていこうと思った。
 次第に広い所では旋回も出来るようになる。その後、かなりの難関へ。下り坂の上に砂利道。脇は崖のようになっていて、下の方に川が流れている。その道をどんどん下り、砂利だらけの小さい橋を横断する、というコースだ。実際下りてみると、ブレーキをかなり踏んでもどんどん進んで行く。怖いのだが少々わくわくもしてしまう。砂利だらけの橋を割っている時、4WDの車で難関を通っているような気持ちになる。直ぐ砂利に車輪が取られるので、アクセルを吹かし乗り越えてはブレーキをかけたりしながら横断する。「上手い!」と、確実にお世辞でおだてられる。おだてに弱いので闇雲に挑む。練習を終えた後にふと疑問に思い、「西谷さんはターレーでこういう所何度か来てたのですか?」と尋ねる。考えてみたら市場を走る乗り物だ。4WDではないのだ。「今日初めてですよ」と言われ、どこかでやっぱりと思った。事によると、あんな山道をターレーで下りた人は日本で西谷さんと私だけなのかもしれない。すっかりへとへと。
 民家に戻り食事をして、帰り支度をする。私だけ今日東京へ帰るのだ。平湯温泉といいうバスターミナルへ送ってもらい、新宿西口行きのバスへ乗る。途中、諏訪湖インターでダチョウの串焼きを発見。全く空腹ではなかったが、東京へお土産に持って帰る。帰宅して食べたら、牛に似ていた。

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岐阜行

 自主制作映画のため、岐阜へ。本格的に撮影に入るのはまだ先なのだが、私はターレーという乗りモノを運転する役なので、その練習を行うのだ。ターレーとは、市場で品物を運ぶ為の乗り物らしい。車に乗れる人なら大丈夫とのこと。しかし、私はぺーパードライバーなのだ。どうなる事やら。
 新宿でメイクのさっちんという女の子と待ち合わせ。彼女はこのまま、岐阜へ7月終わりまで滞在した後、住み込みのバイトに2ヶ月行くという。考えられない程大荷物だった。私はアコーディオンを持ってたり、大荷物のことが多いので、しばしば人に荷物を持ってもらうことが多い。いつも、非常に助かって嬉しかった。その恩をここで返そうと荷物を少し持ってあげた。今まで、皆よく人の荷物など持ってくれるものだ、自分はそんな親切心を持ち合わせていないと思っていた。しかし、親切心ではなく、目の前で異様な量の荷物を持っている人を見たら、持たないでいる事の方が、しんどいという事が分かった。
 スタッフの多田さんと森本さんに車で拾ってもらう。明け方、酔っぱらったハイテンションの人がうちに遊びに来たので、あまり眠れなかった。布団も占領され、目が冴えてしまう。少々情緒不安定だったので、その原因と思われる人に架空のメールを5000字ほど打った。車の中で読み返すと死にたい気持ちになったので出すのは止める事にした。
 そのまま爆睡。調布でもう一台の車と合流し、再び爆睡。談合坂で休憩、松本で休憩。その後、撮影場所の候補になっているダムや橋のある所を見学。そこで葉っぱを摘んで草笛の練習をした。なかなか音がならなかったが、一端おならのような音がなってから、結構いい音が鳴るようになってきた。さっちんにも草笛を強制。なかなか苦労していたようだが、彼女も音をならせるようになった。童心に帰る。
 宿泊する民家に到着したのは19時20分頃。今は空き家だという。全体的に茶色で、土や草木に溶け込んでいたので、始めは家が見えなかった。辺りは本当に真っ暗。虫とカエルの声しかしない。
 温泉に行った後食事。食事担当の森本さんが、鴨の鍋を作ってくれていた。正直炊き出しにはそれほど期待していなかった。まさか、鴨が出てくるとは。一時期流行った「失楽園」というドラマや映画に「鴨とクレソンの鍋、二人の思い出の料理ね。」といった感じのセリフがあったように思う。それで、自分なりに鴨とクレソンにキノコやワインなどを入れた鍋を作成したことがあった。自覚的に鴨を食べたのはその時が初めてであった。以来鴨は大好物なのだ。滅多に食べられないのだが。鴨が出てきただけで幸せな気持ちになった。
 その後部屋割り。私は台所の脇にある三畳間に目をつけていた。電気もつかないがここなら一人になることが出来そうだ。しかも、いかにも女中部屋といった北向きの感じもよかった。監督の西谷さんに、「本当にここでいいのですか」と何度も聞かれた。
 その後メイクのさっちんにヘアメイクして貰う。顔は左半分だけ。モノモライはどうも悪化しているとしか思えない。昨日膿を絞ったあと、家で自分で再びしぼったのだが良くなかったのかもしれない。絞り漏らしがあったらと待っていられない気持ちになったのだ。メイクをしてもらって西谷さんにOKを貰った。その間暇さえあればモノモライの観察をしていた。どうも、膿を絞った所とは別な所にもう一つ腫れている箇所があって、そこが酷く熱を持っている。目を閉じると眼球に当たって痛い。私はどうなるのだろう。この顔でいるのはもう、うんざり。

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目を切る

 モノモライは全くよくならない。昨日眼科で、「近日中写真を撮らなければならないので」と言った。おばあちゃん先生は「あ、うん、よく効く薬だから」と言っていた。だが、好転しているとは思えない。今日は中野で打ち合わせをする予定。中野付近の眼科を検索してプリントアウトした。時間があれば眼科へ行ってみよう。
 以前、ハイレグのスタッフをしていたトミちゃんこと富田さんを北口改札で待っていた。今度あるお仕事でお世話になる事になったのだ。すると、ハイレグの事を何から何までお世話してくれていた、ウエポンこと植竹さんに遭遇。二人ともかなり気を抜いた格好。ウエポンに咽喉を心配されるほど、喋りまくる。トミちゃんが来たので、ウエポンは挨拶だけして帰った。
 打ち合わせはとどこおり無く進み、ヨモヤマ話に花を咲かせた。女子とサシで話すのは本当に楽しい。気が付くと17時を過ぎていた。トミちゃんと別れた後、ブロードウェイ眼科を探し当て入ってみる事にした。ブロードウェイの4階には様々な病院と、怪しい店が並んでいた。50歳位の男の先生だった。よかった、おばあちゃんじゃない。
「まだ、発展途上のモノモライですね。切ってもいいけど、どうする?薬でも治せるよ」
「薬だとどのくらいかかりますか?」
「2週間は腫れてるだろうな」
 2週間!と聞き、かなりたまげる。写真撮影は11日から15日位の間で行わなければいけない。18日からは映画の撮影だ。全然駄目ではないか。
「切ったらどのくらいで治りますか?」
「来週には治るでしょう」
「11日には間に合いますか?」
「11日って言ったら今週じゃないか」
「じゃあ、15日までには?」
「うん、ぎりぎりだな」
「切ってください!」
 本当は臆病なので切ってなんて言うのは、嫌であった。しかし、何故か切られてみたい願望もあった。大袈裟な事態が好きなのだろうか。
「本当はもう少し腫れて爆発寸前で膿を絞った方がいいのだけどね。この状態は切るより針で刺した方がいいようだ。切らないで刺しますよ」
「お願いします」と言いながら、恐ろしさで一杯になる。麻酔の目薬を入れられ、瞼をひっくり返された。左下を見るように言われる。いつの間にか顔が逃げてしまい、何度か注意されながら、針を刺され、膿を絞られた。眼帯をつけれられた。自転車で来たので、不安になる。片目で漕ぐ羽目になってしまった。考えれば分かりそうな事だった。しかし、膿をしぼって貰って少し安心した。やはり今日眼科に行って正解だった。2週間も腫れていたら沢山の人に迷惑をかけてしまう所だった。しかし、まだ油断は出来ない。

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七夕と誕生日

 七夕なのに、雨。
 そうそう、今日は河原君のお誕生日。メールで祝福しておく。こういう時覚えやすい誕生日の人はいい。仲良くても、4月27日とか、マイナー感が漂って覚えられない。ちなみに私は1月3日がお誕生日。しかし、正月の最中なので以外と覚えて貰えない。予備校の寮にいる時、お誕生日を自習室で過ごしていた。仲の良いコ達と一緒だった。そのコ達の誕生日にはプレゼントも渡していた。だから、きっと覚えてくれていると期待していた。誕生日が近くになっても、物欲しげに見えるのがイヤで黙っていた。だが、自習室では誰も何も言ってくれず、勉強だけがはかどった。友達と別れてから、悲しくなり公衆電話で母に電話した。しかし、いつまで経っても祝う感じにならない。しびれを切らし「何か言うことない?」と聞いたら、「ん?勉強頑張ってね」と言われた。おいおい泣きながら「違うでしょ?私今日誕生日じゃない」と言うと、「ああ、さっきまで覚えてたんだよ」と、取りなされたがもう駄目であった。その日は異常な量の日記を書いた。自分はいかに取るに足らない人間かということを、延々と5ページ位書いていた。祝って貰いたいと期待している事自体が身の程知らずだったのだと、深く反省していた。面倒くさい年ごろだったのだろうか。今では、どうせ誰も覚えちゃいないと思っているので、バンバン言いふらすようにして、祝福の言葉を催促するようにしている。それでも、「おめでとう」と言われると用心する。単に正月の挨拶だったりする事も多いのだ。
 眼科に行く。ただのモノモライだし、近所でいいだろうと思った。腫れが引かないので、切って貰いたかったのだ。しかし、先生はよぼよぼのおばあちゃんだった。動きも相当緩慢だ。この人にメスなど握れるのだろうか、握れるとしても大丈夫なのだろうかと、不安が押し寄せてくる。しかも、診療所には孫がじゃれつきに来る。「話の種」という何かの種のお菓子を手に持っている。
「これ食べれるの。種だよね。でも、食べれるの?土に撒かなくていいの?」
「それはお菓子だから食べていいの。土には撒かなくていいのよ。話の種と、種を掛けてるのね。おもしろいね。食べていいんだからね」
 おばあちゃん先生は優しく答える。なんとのどかなのだ。
「これは切らなくてもいいと思うよ」と言われて、少しほっとする。
 帰宅してアコーディオンを練習。その後今更ながら田口ランディの「コンセント」を読む。確かに面白い。「欲情が去ると私はまるで男に興味が無くなるのだ」なんて事、一度言ってみたい。でも、まだ全面的に受け入れられるものでは無かった。これは他の作品も読んでみなければ。共感する部分と相反する部分と、意味さえ分からない部分があった。それはどの本を読んでも同じなのだが。その割合で好きか嫌いか、自分に必要か不必要かを決めるのだ。いくら名著だと言われるものでも、自分に不必要な本は沢山ある。

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性能アップしてきた私

 ものもらいは一向に良くならない。
 朝8時半に二子玉川へ。7月半ばから、撮影に入る自主制作映画のリハーサルなのだ。監督の西谷龍二さんは、仲良しの高木珠里ちゃんのお知り合い。去年珠里ちゃんと共演したお芝居を観て、オファーして下さった。しかし、誰も知っている人はいない。撮影は岐阜県で、コンビニも歩いてはいけない所で行うらしい。二子玉川から相当歩いて公民館へ行く途中、西谷さんから撮影環境について色々尋ねる。トイレはくみ取り式。お風呂は16人位が順番で入るか、近所の温泉へ行く事になりそうだ。携帯もJフォンは圏外らしい。
 雨の中、傘をさしながらドキドキするような内容を聞いていたら、黒い珍しい蝶の死骸を踏みそうになり、「うわーっ!蝶々の死体」と悲鳴を上げながら飛び跳ねて、他の人を驚かせてしまう。集団生活の苦手な自分は大丈夫なのだろうか? 地方公演も、今では大丈夫になったが、始めの頃はパニックになりそうだった。皆が地方へ行けるのを喜ぶのを尻目に、冗談じゃない、気が狂いそうだと、単独行動をしていた。ハイレグが地方へ行くようになった初期は、寺で雑魚寝だった。ノイローゼになると一人でビジネスホテルへ泊まった。大阪は食い物が美味しいからと、連日色々な店に行く人達の事も、旅先に来たらいきなりグルメみたいになってと小馬鹿にして、昼の弁当の残りか、コンビニ弁当を食べていた。今から思うと何故そんなに偏屈だったのかと思う。今ではすっかり、旅先では付け焼き刃のグルメ気取りかもしれない。旅先で浮かれるのを楽しみにさえしている。この事を自分としては進化、順応、と受け止めている。だから、今回もいまの私にとって過酷と思える事を対応していけるようになれるのではと、チャレンジ気分だ。22歳頃まで、自分の事を人並みな事が出来ない、社会不適応なタイプだと思い込んでいた。ある意味自意識過剰で、特別に性能が悪く出来ている、だから人並みな願望は持たないようにしなければと心がけ、普通に暮らしているように見える人を羨望して酔っぱらってばかりいたのだ。今そういう人を見るとムカムカするのだが。
 おそらくひょんなきっかけで、芝居をするようになり、比較的努力するのが苦に感じなかったり、出来ないと思われた事を出来るようになったりと、自分の性能をアップさせる事に目覚めた。一生誰とも付き合えない、と思っていたが人並みに恋愛も出来るようになった。今でも、それは奇跡のように思える。お部屋もどうしても片づけられなかったのが、ちょっとだらしない程度に進歩させる事が出来た。自分にとって少々ハードルが高い事を課して行くと、思ったより対応出来るようになった。今では住民票を取りに行くのも慣れたものだ。歯医者も一人で行ける。だから全く知らない人達と2週間、電話が通じない所で暮らすのも出来るようになるはずだ。是非、そうありたい。
 そんな覚悟をしてリハーサルに臨む。出演者の人達は今まで共演した小劇場系の人とは全く毛色が違う。何だか理系っぽい。仲良くやっていけるといいのだが。眼帯をしているので、少々不自由だったが、リハーサルをしている内に大分やり方が分かってきたようだ。メイクさんが来ていたので、顔半分だけメイクをしてもらう。我ながら面白い顔になっていた。
 疲れ果てて帰宅。お友達が遊びに来る。ご飯を作ろうと言う事になる。冷蔵庫に賞味期限切れの食品が沢山あるのを発見される。始末するように勧められる。数ヶ月前に腐らせたカスピ海ヨーグルトも、恐ろしいので見ないようにしていた。しかし、それも捨てるように勧められる。流しに捨てたら、凄まじい臭い。泣けてくる。器に臭いが染みついている。相当長い間煮沸する。大分臭いは消えたが、完ぺきには消えない。天日にさらしたり、煮沸したりを繰り返さなければならないだろう。それでも、再び使うのは勇気がいる。
 夕食はズッキーニとひき肉とエノキをカレー味に炒めたものと、鳥肉をオーブンで焼いて、チリソースを掛けたもの、とおみそ汁。すっかり満腹。

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今度は目が腫れる

 音声外来の予約の日。天気がいいので布団を干してから出かける事にする。メールチェックなどして、身支度を整える。鏡を見て驚く。右目の瞼が異様に腫れて目が半分しか見えないのだ。鏡を見るまでまるで気付かなかった。顔を洗ったら治るかと思ったが、依然として腫れている。こんな顔で外へいけない。しかも、診察券も見当たらない。目薬も見当たらない。仕方なく帽子を目深にかぶり、保険証を持って東京医大へ。途中の薬局で抗菌目薬と、眼帯を買う。眼帯をするのは7,8年ぶりだ。非常に歩きにくい。しかし、右目を世間に見せて歩くのはイヤだった。眼帯をしながら、耳鼻咽喉科へ。
 声帯は少しだけ良くなっていた。しかし、指のタコと同じ全く無くなることは無いようだ。ある程度付き合っていかなければならないと言われた。次第に目が痛くて痒くてたまらなくなる。トイレで眼帯を取ったら、びっしり目やにが出ていて瞼が張り付いていた。病気の猫みたい。耳鼻科で「早く眼科へ行った方がいいよ」と言われたが、土曜は午前中しかやっていないことが多い。しかも明日は日曜。月曜までは目薬でしのぐしかない。治るのだろうか。
 病院を出たら、お腹が空いた。東京医大と、先日まで稽古していた所が近かったので、「もうやんカレー」のランチを食べる。昨日も昼夜カレーだった。自分ながら本当にカレー好きだと思う。

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ニッポン非合法地帯

 昨晩、散らかした着物を畳んだりしてだらだらしていたら、夕方になってしまう。東京へ帰らねば。無気力なので全ての動作がのろい。
 母と名残を惜しむ間もなく、仙台駅へ。売店で「ニッポン非合法地帯」(北芝健著)という本を買う。帯に売春、援交、強姦、ヤクザ、盗聴、臓器売買、警察リンチ アンダーワールドの真実 元暴力刑事大懺悔、と凄まじい言葉が羅列されていた。新幹線で読みふける。自分が生きているのが奇跡と思われるような恐ろしい本だった。著者はかなり腕っぷしもよく男気あふれる人のようだ。自慢も多い。しかし、こんな人ならどんどん自慢していいだろうと思った。海外で起きた強姦事件の犯人を、報酬もなしに自腹で飛行機へ乗りやっつけに行ったりしているのだ。   

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牛タン食べたり、駅で手を振ったり

 ホテルのチェックアウトが11時。間に合うように起きたのに、一瞬目を閉じたら、寝過ごしてしまう。電話を貰い慌ててロビーへ。いつも寝過ごす桑原さんをからかっていたので、悔しくなる。まことさんが「利久」という牛タン屋へ行こうと言っていたのに、起きてこない。延長して寝る事にしたそうだ。砂羽さん、トミー、真弓さん、桑原さん、しんぺーさん、制作の長野さんというメンツで「利久」へ。牛タンが肉厚で美味しかった。しかし、食欲も消化する体力も無い感じで無理やり食べた。無理やりでも美味しかったので、空腹だったらさぞかし美味しいのだろう。途中で、まことさんから電話。これから来るとの事。いつもはお昼にビールや日本酒を飲むまことさんとしんぺーさんも、お茶を飲んでいた。
 その後古着屋へ行ったり、プリクラを撮ったりした。疲れたので仙台駅の中のずんだもちの茶房へ入る。ずんだとはエダマメの餡なのだが、風味があって非常に美味しい。緑色のあんこは皆ずんだだと思っていたので、ウグイス餡を食べた時は、不味さに驚きがっかりしたこともある。せっかくずんだもちが売りの店に入ったのに、ウグイスのババロアを食べていたしんぺーさんを激しく非難した。まったりしていると、中山くんから電話があり合流することになる。中山君、圭史君、小山田さん、制作の岡さんも茶房にやって来る。店には私たちしか客がいない状態。帰り際、店員さんが「また、仙台へいらしてください」と声を掛けてきた。もしや、昨夜のお客さんだったのだろうか。それとも、観光客全てに言っているのだろうか。
 皆はおみやげを買って、東京へ。私は仙台にいる母のところへ行くため、お別れ。中山君が部屋飲みした時の差し入れの酒が余って気が狂いそうだと、じゃんじゃんビールをくれた。おそらく中山君が無理やり岡さんに持たせていたらしい日本酒も、「お母さん、飲むかなぁ」と手渡された。母は今日誕生日なのだ。何か買っていこうと思っていたが、重過ぎて無理そうだ。劇的に手を振って別れる。中山君が「またやろうぜ」と言ってくれた。本当はとても一緒にやりたいのだ。だが、私の一存ではどうにもならない。そういう機会に恵まれたいものだ。これ以降の芝居の予定は決まっていない。こうやって地方へ行くのも舞台に立つのも最後かも、としんみりしていた。絶対にやろうなどと強い意志を持たないのが、私の悪い所かもしれない。流されるようにしか暮らせないのだろうか。
 母の薬局へ行く。母はにやにやしていた。従業員の人に、来るのが遅いので「どうせ、牛タン食べたり、駅まで行って手振ったりして来ているのよ」と言っていたそうだ。すっかり読まれている。流石母親だ。
 夜は祖母の着物を見せてもらったり、カレーを作ってあげたりした。興奮して中々眠れない。

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仙台で大楽

 ゆっくり休もうと思ったのに、家へ帰ったらろくに寝もせずに携帯のテトリスに耽ったり、雑誌を読んだりで全く疲れがとれていない。仙台へ向う新幹線では、異様にぐったりしていた。このまま仙台公演を行うなど信じられない。しかも、本当の楽日だ。それなのに、宇都宮まで「夫の不倫で苦しむ妻達」という本を読みふけってしまう。仙台まですぐではないかと、慌てて寝る。面白い本であった。しかし、世の中に幸せなんてありえないような気持ちになる。
 風邪をひいてしまった。モノを飲み込むのが痛いので食事が苦痛だ。そういう時に限って、何故か沢山食べてしまう。電力ホールについたら早速お弁当を食べる。砂羽さんも、風邪をひいていてかなりしんどそう。私の母が仙台で薬局を営んでいるので、メールや電話で状況を説明して薬を持ってきてもらう。私は慣れているが、飲み慣れないヒトには怪しく見えるような、漢方と丸薬、ドリンクなどを砂羽さんにあげていた。ドリンクをお湯割りにして、漢方薬を飲む。丸薬に至っては、周りに金箔が施され、甘いやら、苦いやら、辛いやら謎の味の練り物を口の中で溶かしながらなめるのだ。舐め始めて早々に砂羽さんは「駄目だ、飲み込んでもいいですか」と飲み込んでいた。私はこの丸薬の味に慣れていたので、最早好物でさえある。ただ、一玉3千円もするのでおいそれと飲むことはできない。
 咽喉は声枯れの炎症の痛みは無くなっていたが、風邪の腫れでなんだか咽喉が狭く感じられた。しかし、今日で最後。本番では、後先考えずに叫んだ。終る頃にはかなり枯れていたが、なんとか終えることが出来た。全部で19ステージだったわけだが、終ってしまうという実感が無かった。4,5回の公演の方が感極まったりするようだ。お祭り感が高いのだろうか。10回を越えると本番が日常化するのかもしれない。終った後もかなり具合が悪かったが、もう風邪を治そうという意識もなくなり打ち上げに臨む。最終的には中山君のお部屋で5時半までだべっていた。公演の終わりという事より、このメンツでいる事が最後という感慨が強かった。名残惜しかったものの、体力の限界に来たので自分の部屋に戻り寝る。

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